アマンシオ・オルテガ氏はファストファッションを代表するZARAを始めとする複数のアパレルメーカー、INDITEXの創始者であるとともに世界長者付に名を連ねる一人でもあります。
彼がどうやって巨万の富を築くことになったのかという経歴や資産や年収、そして成功するための学ぶべき方法について考えてみましょう。
学歴だけがすべてではない、アマンシオ・オルテガ氏の経歴とは?
アマンシオ・オルテガ氏は、1936年にスペイン北部のレオン氏というところに、鉄道作業員の父親と家政婦の母親の下で5人兄弟の末っ子として生まれます。
父親の転勤によりコルーニャ市に引っ越ししばらく過ごしたのは小さな社員宿舎だったとされており、決して恵まれた生活を送っているわけではなかったようです。
その理由として、13歳の時からすでに縫製店で兄弟とともに働き始め、その後も手芸店の販売員として働き続けますが1963年に働いていたお店を辞めて兄弟たちと部屋着と下着のお店である「GOA Confecciones」を立ち上げ、この時すでに生産から物流、販売のすべてを1店舗でまかなうシステムを導入して低コスト化に成功していたとされています。
1975年にはコルーニャ市に「ZARA」1号店をオープンし、その10年後にはスペインだけで38店舗のお店を展開し企画や物流、販売などZARAのすべての事業を統括した企業である「INDITEX」を設立します。
1998年に海外の1号店であるポルトガルにオープンして以来、その後フランスやアメリカ、メキシコやサウジアラビア、日本に至るまで進出を遂げその勢いはとどまるところを知らず、世界46か国、531店舗までに広げ世界的なアパレルメーカーのブランドとして定着したとされています。
そこまでZARAが急成長した背景として数多く高価なブランドが存在する中で比較的安価で異なったデザインの衣服を購入できることが魅力の一つだったとされており、1号店の創業当時にもセーターをわずか500ペセタ(日本円で約2650円)の安さで販売していたのを聞きつけた大学生たちがこぞって隣町から買いに来たというエピソードまで残っています。
数千円から数万円の価格帯で販売しているアパレル産業の中でここまで発展し世界的にニチンされたブランドもZARAを除いてないとされています。
アマンシオ・オルテガ氏の資産や年収は?
実はアマンシオ・オルテガ氏は、世界長者番付においてカルロス・スリム氏と同じくマイクロソフト創始者であるビル・ゲイツ氏を抜いて首位に立ったことがある人物でもあるのです。
しかし、その順位も株価の変動や時価によってすぐに資産が変動することから実際にビル・ゲイツ氏を抜いて1位だったのはほんの数時間のことだったとされていますが、それでも世界で1位になったのですからすごいことと言えるでしょう。
そんなアマンシオ・オルテガ氏の資産はどのくらいなのでしょうか。
世界長者番付1位になった時の総資産額は798億ドル、日本円なら約9兆6500億円というのですから例え数時間でも世界一の大富豪になるだけの資産はあるというわけです。
また、2011年にはZARAの親会社であるINDITEXを退職し、副代表であるCEOのパブロ・イスラに全権を委ねることになりましたが。ビル・ゲイツ氏でさえマイクロソフト社の保有株式はわずか4%なのに対し、アマンシオ・オルテガ氏はINDITEX株式の59.3%を保有しているとされており、持ち株率が過半数を超えているということは総資産や年収もさることながら会社における決定権なども投資家に気を遣うことなく集中して経営できるような環境にいるということになります。
そして、アマンシオ・オルテガ氏は経済が低迷していた時期に安価な価格で獲得した資産価値が非常に高いとされる不動産のポートフォリオの価値が、50億ドルと見込まれているほかにGoogleのオフィスが入っていることでも知られるスペインのマドリードにある「トーレ・ピカソ」も所有しています。
それ以外にも、ニューヨークやマドリード、ロンドンに約8億3000万ドルで4つのビルを購入し、これを入れると彼が所有しているビルは26にも及ぶとされています。
アマンシオ・オルテガ氏に学ぶ成功法の秘訣とは?
アマンシオ・オルテガ氏は子供のころ決して裕福な生活ではなく、10代では地元の縫製店で働き始めて一代で大富豪となった努力家でもあります。
生産から流通、販売をすべて自社で行うシステムを確立し、ZARAというブランドを世界的なブランドへと発展させた彼は実は非常に控えめな人で、テレビや雑誌などのインタビューなども応じないという一風変わった人柄である一方、何よりも現場主義であり社長室にもこもらずに従業員とともに仕事をしているのが好ましいという一面を持っています。
ある記者が取材のために工場の中を案内されている時に、ほかの従業員に混じって仕事をしているアマンシオ・オルテガ氏がいたというエピソードがあるように非常に職人気質でだったようです。
成長することが経営存続のメカニズムだとするアマンシオ・オルテガ氏の唯一後悔していることは「家族と一緒の時間を過ごせなかったこと」であり、なかなか会いに行けずに亡くなった母親の死後もずっと悩んでいたとされています。
「人々を愛して欲しい。そのほかのことはあとからすべてついてくるさ」という彼の名言通り、人を愛することが彼によって洋服を作るための原動力であるともいえるのかもしれません。